山形県生協連の創立60周年を記念し、山形県生活協同組合連合会の前専務理事、大友廣和氏が退職後にまとめた、戦前の山形県生協運動の歴史文書をアップいたします。

戦前における山形県の生協運動について

【前書き】

日本での生協運動は、明治12 年(1879 年)に設立された共立商社が始まりです。明治31 年(1898

年)には、鉄工組合などを基盤にして共働店運動が展開されましたが、治安維持法による弾圧のも

とで数年のうちに衰退し、その後は会社付属の購買組合や公務員 (官吏型)による購買組合が主流

でした。

しかし、大正デモクラシーに入ると、労働者生協や市民型生協の運動が台頭し、その流れは、

大正15 年(1926 年)の関東消費組合連盟結成、昭和7 年(1932 年)の日本無産者消費組合連盟

結成へと進展していきました。しかし、昭和大恐慌期における運動の高揚のあと、太平洋戦争に

向かうファシズムの嵐のなかで運動は困難となり、やがてほとんど壊滅させられました。

1.岡本利吉について

岡本利吉は、大正8 年(1919 年)に企業立憲協会を設立し、労働組合を組織しました。その

労働組合を基盤に、大正9 年(1920 年)に東京亀戸にロッチデール型の消費者組合亀戸共働社

を開設し、その後設立した3 つの共働社と合わせ、大正15 年(1926 年)に関東消費組合連合

会を結成しました。

しかし、次第に労働者との間にへだたりを生じた岡本利吉は、大正15 年(1926 年)に、自

ら考えだした「美教」理論の実践に入るため、農村に活動の場を移しました。

昭和2 年(1927 年)1 月、全国の農村を行脚し、美教と共働の思想を宣伝しました。また、

この年の4 月から、富士山麓に共働村の開墾を始めました。

昭和3 年(1928 年)3 月、富士山麓に農村青年共働学校を開設して、開墾や自給自足の農本

自治を理念とした、農村中堅青年の育成を始めました。

2.星川清躬について

大正12 年 (1923 年)の秋、星川清躬は、父の医業を継ぐために、それまで勤めていた神戸病院

をやめ鶴岡に帰って来ました。そして医業の傍ら、芸術文化・農民運動に情熱を傾けました。

昭和初年の農業恐慌に、星川清躬は農民たちの生活の困窮を見かね、農を基本とする人類協調

社会を目ざす農本主義の実践に入りしました。星川清躬は、岡本利吉が農村青年共働学校を創設

することを知り、昭和3 年の開校を待って毎回生徒を送りだしました。

昭5年(1930 年)年8 月、農本主義の実践母体として「協働村落文化研究会」を創立し、翌年

機関誌「協働村落」創刊しました。

昭和7 年(1932 年)に、東京で農本連盟全国協議会が開催されました。参加者は、北は山形か

ら南は福岡まで総勢83 名に及びましたが、参加者の多くは岡本利吉を校長とする農村青年共働学

校卒業生ないしは関係者でした。星川清躬は岡本利吉らと共に常務委員に名を連ね、会報「農本

社会」の発行発起人となりました 。

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昭和初期において、農村衛生が深刻な問題になりつつありました。昭和6年(1931 年)に賀川

豊彦らによる東京医療利用組合設立の発表をきっかけに、全国に設立機運が一気に広まりました。

星川清躬は、さっそく農本連盟全国協議会で医療組合の実行案を提案しました。

協働村落文化研究会の活動は、小林徳一、剱持忠徳らの黒川共働農場開設、佐藤喜代治の消費

組合設立、佐藤一郎の温海町木の俣における組合病院設立などの実践を生み出しました。

星川清躬は昭和11 年(1936 年)末、温海町木の俣に移住して組合病院活動をしました。その

後、昭和12 年(1937 年)に秋田の小坂診療所に移り、同年雄勝郡西馬音内町(にしもないまち)

に開業し、昭和15 年(1940 年)1 月15 日に狭心症のため亡くなりました。

3.松田甚次郎について

松田甚次郎は村山農学校卒業後、盛岡高等農林学校に進学しました。昭2 年(1927 年)年3 月、

盛岡高等農林学校を修了した松田甚次郎は、帰郷に際し、今後農民としてどう生きるべきか、そ

の教えを乞いに宮沢賢治のもとを訪れました。宮沢賢治は松田甚次郎に、村に帰ったら「一、小

作人たれ。二、農村劇をやれ」と強く希望しました。

昭6 年(1931 年)年夏、鶴岡で開催された第一回農村夏季自治大学に参加した松田甚次郎は、

翌年8 月、「最上共働村塾」開設しました。

窮乏化する農村を救済する松田甚次郎の実践は、多岐にわたりました。自給自足的農業経営を

根幹とする味噌・醤油の自家醸造法の考案、オガくずを利用した肥料改良、農繁期の託児所、共

同炊事、共同風呂の開設、消費組合の設立、貯水池の造成などです。これらの実践は、当時展開

された農山村漁村経済更生運動とからみ、近隣の村々にも大きな影響を与えました。

松田甚次郎の活動が全国に知られるようになったきっかけは、昭8年(1932 年)年1 月、第一

回日本篤農青年大会に県代表として出場、昭和13 年(1938 年)5 月『土に叫ぶ』を刊行した後

のことです。これが演劇化されて同年8 月、東京有楽座で上演、これを農林大臣が観て激賞し、

全国にけん伝されました。以後、松田甚次郎は時代の先導者として世間の注目をあび、執筆や講

演などで東奔西走の日が続きました。

昭和14 年(1939 年)3 月、松田甚次郎は、羽田書店より「宮沢賢治名作選」を出版しました。

この出版が、宮沢賢治を世に出す、きっかけとなりました。昭18 年(1943 年)年7 月、村の雨

乞い祈願の際、雨にうたれ、翌8 月1 日、中耳炎と急性心臓炎のため死去しました。35 歳の生涯

でした。

4.消費組合鶴岡共働社について

星川清躬は、協働村落文化研究会を組織し、その研究会の外郭に消費組合を作り、映画、演劇、

レコードコンサートと等の文化活動や機関誌の発行等幅広い活動をしました。

消費組合鶴岡共働社は、岡本利吉の「共働社」に倣った消費組合づくりと見ます。『目で見る鶴

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岡百年』に「キリスト教関係者が主体であったことが異色」とありますが、正確な表現ではない

と考えます。

5. 黒川共働農場について

星川清躬は、農本社会実現の足場にしようと、昭和8 年(1933 年)5 月に東田川郡黒川村桃平

に黒川共働農場を開設、あわせ庄内農村塾をも創立していきます。

この農場開拓にあたったのが、小林省吾(丸岡)、野坂清健(星川の末弟・画家)、渋谷美作(田

麦俣)、佐藤岩吉(教員)の四名でした。

黒川共働農場の実践には今野忠治、佐藤甚市郎氏(後に鶴岡市議会議長)、小林徳一、鈴木伝内、

阿部太一氏(歌人)らも参加、なかでも剣待忠徳氏(黒川村)は最後まで頑張り通しました。

6. 最上共働村塾について

最上共働村塾の開設に大きな影響を与えたのは、星川清躬や岡本利吉の実践、それに小野武夫

の「農民教育と村塾問題」でした。松田甚次郎は盛岡から帰村した翌年、茨城県友部の国民高等

学校に一年間学んでおり、加藤完治の影響も受け、塾では禊や神社参拝を欠かさないで行ってい

ました。

7. 酒田消費組合について

酒田消費組合についての資料は、生協ニュースのみです。ただ、田村寛三著の「酒田ききある

き」に竹内トモヱさんが紹介されていました。

「彼女は、階級運動の兵姑部といわれた無産者消費者組合活動に従事し生活物資の供給を通じ

て資本主義社会のカラクリを暴露したり、大衆運動を説き回ったり、モップル(国際革命運動犠

牲者救援会)の指導者として全国を歩き回るなど、その献身には目を見張るばかりでした」とあ

りました。非常に活動的な方だったようです。

8. 農村消費生協について

農村消費生協とは、小作人および農業労働者などの貧農を構成要素とする階級的生協を指しま

す。昭和6年(1931 年)当時、農民組合および関係諸団体が設立した農村消費生協は、全国に約

40 組合が存在しました。

昭和2 年(1927 年)に日本農民組合山形県連合会が結成されます。これ以降、山形県内での農

村消費生協づくりが取り組まれたと見ます。昭和7年(1932 年)頃、谷地消費組合は会員50 人、

利用者150 人くらいまで組織したが、一年ほどで行き詰まる。米沢消費組合は常勤者、組合員40

名。利用者300 名と記載あります。また、「山形消費組合」という記載も出てきますが、組織実態

は不明です。

9. 市街地購買組合について

市街地購買組合は、高級官吏、上層市民、在郷軍人などを対象とした官庁指導型の組合です。

政府や独占資本の上からの指導によって設立されました。会社付属の購買組合や公務員 (官吏型)

の購買組合がこれに当たります。

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大正11 年(1922 年)設立の千歳購買組合は、官公吏・教員297 名とあり官吏型組合でした。

昭和13 年(1938 年)設立の松岬購買組合も似たような組合と推察されます。

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